★トヨタ自動車 VS 住友銀行&川崎製鉄 バトル そのA

【トヨタ自動車】【住友銀行&川崎製鉄】 バトル開始です。


トヨタ自動車は1949(昭和24)年の年末、販売不振と売掛金の回収遅延から、

2億円の決済資金の手当てがつかなければ、あわや倒産という事態に陥ってしまいました。

日銀名古屋支店支店長高梨壮夫(後に日銀理事)はトヨタの倒産は東海経済に危機的状態をもたらすと判断、

主に東海銀行(新)帝国銀行(その後の三井銀行⇒さくら銀行)を中心とする銀行団に緊急融資を斡旋します。

融資の条件として、

二代目社長豊田喜一郎の辞任及び製販分離でした。

製販分離つまり販売強化のために、製造会社と販売会社に分割・設立するということです。

豊田喜一郎と三代目社長になる石田退三らは金融機関に頭を下げて融資交渉にあたったのです。

この時、日銀は20数行の銀行に融資を依頼したのですが、頑なに最後まで融資に応じなかったのが、住友銀行だったのです。

住友銀行名古屋支店長・小川氏融資担当常務・堀田氏は喜一郎氏や石田氏らの前で言い放った。

「機屋(はたや)に貸せても、鍛冶屋には貸せない」

と、にべもなく断り、貸出金の回収に走り取引を打ち切ったのである。

また、融資だけでなくトヨタ自動車は取引業者に対しても年末支払いの猶予などで協力を求めました。

多くの取引先がその申し出に応じたのですが、ただ1社協力を拒んだ会社があったのです。

それが川崎製鉄なのです。

ここに【トヨタ自動車】と【住友銀行&川崎製鉄】 バトルが開始されたのです。


日銀の斡旋もあり 1億8820万円の協調融資が実現し、破綻危機は乗り越えられたのです。

1950年、融資条件だった社長の交代により三代目社長に石田退三が就任。

製販分離によりトヨタ自動車販売株式会社が誕生したのです。

豊田喜一郎は心労のためか1952年に死去しました。

しかし長男章一郎氏三井家から博子さんを妻に迎え、

三井グループの一員としての色合いを濃くしていくのです。



※今回はここまでとしますが、バトルは続くのです。

機屋(はたや)とは東海地方の経済の中心産業の繊維産業の蔑称です。

この侮辱的言葉は後々の3人の運命に関わってくるのです。


★トヨタ自動車 VS 住友銀行&川崎製鉄 バトル そのB 終焉
★トヨタ自動車 VS 住友銀行&川崎製鉄 その@ 倒産危機前夜







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